アレルギー症状の中でも、非常に危険度が高いとされている「アナフィラキシーショック」。平成24年12月、調布市立富士見台小学校で起きたアナフィラキシーショックによる死亡事故は、ご存じの方も多いのではないでしょうか?
アナフィラキシーショックとは、アレルギー反応により皮膚や気道などに複数の症状が現れたり、血圧低下などショック症状を起こすことをいいます。
アレルギーを引き起こす食物を食べた時に現れるケースが多いですが、人によっては、薬の服用後や、ハチ類の刺傷の際に現れる場合もあります。
わたしがアナフィラキシーショックを経験したのは、人生30年間の中で(大きなものだけでも)全部で7回あります。初めての経験は、血液検査後のパッチテストの時でした。
パッチテストとは血液検査を元に、皮膚に、原因と考えられる物質(かぶれるもの)を貼付または投与して、皮膚の反応を調べる検査です。
わたしの場合は、卵や乳製品、ピーナッツなどのエキスを注射で投与したのですが、その時は少量投与しただけでも呼吸困難になり、テストを中断せざるを得ない結果となったと聞いて、当時の症状の重度さをうかがい知ることができます。
(写真は4歳手前の時の結果のものです)
初めての血液検査の結果、アレルギー反応が出たのは以下の通りでした。
・米
・卵
・乳製品
・大豆
・小麦
・牛、豚、鶏肉
・青魚
・エビ、カニ
・ナッツ
・蕎麦
・柑橘系果物
・バナナ、マンゴーなど外来種の果物
・ほうれん草などアクの強い野菜
・トマト
・緑茶
日本人の主食でもあるお米がダメだったのだから、驚きですよね…
ではお米の代わりに何を食べていたのかといえば、あわ・きび・ひえなどの雑穀米。
大豆がダメなため、お醤油やお味噌ももちろん食べられません。その代わりとなるのが、同じくあわ・きび・ひえでできたお味噌や、魚からできた魚醤というお醤油でした。これがいわゆる「代替食」です。
除去食の場合は、原因となる食物を除くだけですが、代替食の場合は、原因となる食物の代わりに食べられる食物を使って調理します。
ただ、当時は現代より食物アレルギーに対する認知度が低く、オーガニックブームでもなかったため、そういった自然食のお店もかなり限られていました。また、近所で買い物できることはほとんどなく、インターネットも現代ほど普及していなかったので、わざわざ遠くまで足を運んで買い溜めしたり、FAXで注文したり、と時間もお金もかかっていたそうです。
ここまで食べられないものが多いと、栄養バランスなどが心配だったそうですが、旅館を営んでいた曽祖母から「彩りを気にしていれば栄養は大丈夫!」と心強いアドバイスを受け、赤・緑・黄の色味にだけは気をつけていたとのことです。
また、遅延型フードアレルギーの可能性もあったため、朝・昼・晩の食べたものや便の回数を記載する「食物日誌」をつけ、2週間〜1ヶ月に1度の頻度で通院し、先生にチェックしてもらっていたそうです。
重度の食物アレルギーだったわたしは、ただ単に食べる時に除去すれば良いだけでなく、でき立てのゆで卵の殻をそばでむいていただけで顔が赤くなっていたというのだから、家族の気づかいはとてつもなかったのだと思います。
それだけでなく、まな板や包丁、スポンジなどの調理器具に関しても、家族とは別のものを使用するようにしていました。
代替食を始めて1〜2ヶ月経った頃、劇的に湿疹が消えていき、「食事療法でいこう!」と母は決意。やがて、確信に変わったのだといいます。
文・写真提供:リズムアンバサダー 細川真奈