京都観光といったらお寺巡り。でも、そのお寺に関係するお坊さんの名前が、すぐ思い出せるかといったら、意外に難しいかもしれません。
そこで今回は、お坊さんという切り口からお寺を見てみましょう。
さて、突然ですが、日本で一番有名なお坊さんといったら、誰でしょう?
空海、最澄、日蓮、親鸞など、何人か出てくると思いますが、やはり老若男女の誰もが一度は聞いたことがある、という点では「一休さん」ではないかと思います。
「一休さんの名前は知ってるけど、いつの時代の人で、何をやった人なのかも知らないなぁ。っていうか、アニメのキャラクターじゃないの?」と思う人が、実は多いのではないでしょうか。
とんち話で有名な一休さんは、一休宗純というお坊さんで、室町時代に実在した禅僧。「禅」を行うことで知られる臨済宗の偉いお坊さんだったのです。実は、一休さんは後小松天皇の私生児だったという説が有力で、現在、そのお墓は宮内庁が管理しているということです。
小さい頃から一休さんは、詩をつくれば世間でも広まるほどの才能があった、といわれています。その賢い少年時代を扱ったのが、アニメなどでも知られる「一休さん」なのです。一休さんのとんち話の多くが、江戸時代以降につくられているので、実際のエピソードかどうかは疑わしいらしいのですが、ひとつご紹介しましょう。
時の権力者である足利義満が、幼い一休さんに「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので、退治してほしい」とお願いします。すると、一休さんは縄を用意させて、「では捕まえますから、その虎を屏風絵から出してください」と切り返して、義満を感服させたという。
このように、少年時代の可愛らしくて機転の利いた一休さんというのが、私たちのイメージですが、実際はどういう人だったのでしょうか。
厳しい修行の末、夜中にカラスの鳴き声を聞いて、悟りを開いたらしいのですが、悟りを開いてからの一休さんは、特に奇抜な行動が目立つようになります。
ドクロが付いた杖で街を練り歩いたり、飲酒や肉食、女性関係など戒律を破るような行為を、あえてしていたということなのです。これは禅の精神の中でもかなりレベルの高いことらしいのですが、当時の民衆はそんな戒律や形式にとらわれない一休さんに親しみを感じ、とても人気があったということなのです。
悟りを開き、民衆からも権力者からも人気があったという一休さん。その後、由緒正しき大徳寺の住職にも就任します。さて、禅で有名な臨済宗の中で頂点に立ったともいえる一休さんですが、88歳で臨終の際に言ったという最期の言葉があります。
「死にとうない」
あまりにストレートすぎて、本当にすごいお坊さんだったのかわからなくなってしまいますが、私たちの感覚ではわからないような世界があるのかもしれませんね。
なぜ、一休さんはそんな最期の言葉を言ったのか、なぜ、あえて戒律を破ったのか。そういうことに思いを馳せながら、大徳寺に行くのも面白いかもしれませんね。
文・写真提供:リズム編集部 Y・S
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